9日の未明に父が亡くなり、葬儀を終え、12日に大分から姫路に帰ってきました。
父も、労働者、そして経済的弱者と呼ばれる人たちのために働く弁護士でした。
私が同じような弁護士を志したのも父の背中を見て育ってきたことが一番大きいと思います。
宮崎県串間市出身で、1961年に福岡で弁護士生活をスタートさせた父は1964年、まったく見ず知らずの土地である大分にやってきて事務所を開設して、以来、健康を害してバッジを外すまで50年間、大分の地で弁護士として活動していました(写真は1972年頃の父と小学生の私)。
大分では、多くの優れた労働組合の活動家、優秀な弁護士と出会い、本当に弁護士として充実した50年を送れたことと思います。支えてくれた弁護士の先生方、労働組合の方々には本当に感謝しかありません。
父のような弁護士になりたいと思っていた私は、弁護士になるまでは当然に大分に帰るものだと思っていましたが、いざ弁護士になると、大分に戻れば、甘やかされる、何よりも自分が甘えてしまって、たいした活動もできなくなるのではないかと考え、父同様、全く見ず知らずの土地である姫路に飛び込み、竹嶋健治弁護士、前田正次郎弁護士のもとで弁護士生活をスタートさせました。
それから30年、父とは一般の民事事件では何回か同じ法廷に立つ機会はあったものの、一度は一緒に労働事件をやってみたいという願いは遂に叶うことがありませんでした。その点だけが本当に心残りです。
父は、法廷ではかなりの激情家だったという評判でしたが(その点では私とは大いに異なります)、母の口癖が「家の中では怒っているのを見たことがない」というものであったとおり、家族を大切にしてくれる優しい父で、弁護士になってからも夏、正月に帰省すると、孫である私の長女、長男も本当に可愛がってくれました(写真は2003年頃の父と孫)。
大分に戻らなかったことについて、とんでもない親不孝をしているのではないかと思うことは、これまでにもあったのですが、父が亡くなると、またそういう気持ちが大きくなってしまいます。
それでも、志を曲げることなく地道に頑張っていれば、どこの地であっても、きっとどこかで温かく見守ってくれる筈だと自分に言い聞かせ、これからも、少しでも父に近づけるように頑張っていきたいと思っているところです。
というわけで、税金の私物化以外の何物でもない桜を見る会、教師の仕事を更に激化させることが明らかな教員への変形労働時間制導入の画策等、書きたいテーマがないわけではないのですが、しばらくは父の冥福を祈るため、このブログの更新もお休みします(四十九日が終わってから来年1月中旬以降には再開予定です)。