今日、6月9日はロックの日。
その前日のお6月8日の朝日新聞のオピニオン&フォーラムに、俳優の松重豊さんが「号泣」したという、1月13日付朝日新聞の「声」の単に掲載された森川さんという大学生の方の投稿「今も聞こえる ロックじゃねえ!」について語ったインタビュー記事が掲載されていました。
森川さんの投稿は、小学校6年生の時の担任の先生が、「宿題を忘れても怒らなかったが、うそをついて言い訳すると怒った。掃除中に誤ってガラスを割っても怒らなかったが、それを黙っていると怒った・怒りが頂点に達した合図が『ロックじゃねえ!』だ」というものです。
松重さんは、インタビューの中で、自分の仕事を選ぶ基準が「ロックか、ロックじゃないか」で、自分がロックスターから教えてもらったロックスピリッツを若い世代に伝え継いできたか、そう自問自答することが増えていたところ、森川さんの投稿を読んで号泣してしまったということを語っています。
(ポール・マッカートニー 2018年11月 名古屋ドーム)
その上で、松重さんは、ロックの意味を問われると、「わかるわけないだろ!」っていうことになると述べがらも、「全体主義的な風潮にのみ込まれぬよう、アンチテーゼを提示するのがロック」と、ロックを定義づけられておられるのですが、この定義には素直に納得してしまいました。
私自身、中学から聴き始めたロックをいまだに聴き続けていること、50を過ぎて少し余裕ができたことから、ポール・マッカートニー、エリック・クラプトン、ボストン等のコンサートに行くようになって、コンサート後はしばらく一人で高揚した気分になっていることは、ブログにも書いたことがあります。
まだ人種差別が根強く残る1960年代のアメリカで、ビートルズが白人と非白人観客を隔離しようとしたフロリダ州ジャクソンビルのゲイター・ボウルでの演奏を拒否したこと、レッド・ツェッペリンが1971年の広島公演での収益全額を広島市を通じて被爆者の方々に寄付し、ジミー・ペイジがその44年後にも広島の平和記念公園を訪れ慰霊碑に結果したこと、エアロスミスが2015年の米大統領選挙でトランプが勝手に楽曲(ドリームオン)を使用したことについて楽曲の使用停止を求めたこと等々、例外もあるけど、ロックは私の心の中でも権力に抗し、弱い人に寄り添い、個人主義(個人の尊厳)の砦となってくれる存在でした。
(ボストン 2014年10月 大阪中央体育館)
これからも、間違っていること、個人の尊厳、あるいは社会的弱者と呼ばれる人たちを傷つけるような全体主義的な風潮、権力の横暴に対しては、心の中で「ロックじゃねえ!」と叫びながら、抵抗する姿勢を持ち続けていきたいと思います。
松重さんの「ロックじゃねえ!」、有料ですが、朝日新聞デジタルで読むことができます。
(アイキャッチ画像は2015年2月の大阪・京セラドームでのポール・マッカートニーのコンサートのフィナーレ)